BBQ今昔物語(その1)(バンド再結成のきっかけ)by 川上兄
2008年11月8日、新横浜プリンスホテルで横浜市立金沢高校第16期同期会が開催されました。
予定していたゲストの都合がつかなくなり、BBQとして何か歌ってくれとの役員の要望があり、メンバーが久しぶりに再会し(といっても松下、松田、川上は、就職後もずっと家族ぐるみでつきあっていましたので吉田との久々の再会でありました。)40年ぶりにバンド活動が再スタートすることになりました。
幸い(?)なことにメンバーは、定年を1年半後に控え、これから時間的には何とかなりそうなのでとりあえずやってみようかということでBBQ再結成となったわけです。
就職以来3人はしばしば飲んだり、テニスやマージャンをしたりしていたのですが、バンド結成の話はまったくでませんでした。
同期会は丁度よいきっかけだったのかもしれません。この間、音楽にずっと関わっていたのは、今年の浅草サンバカーニバルで優勝した「エスコーラ・ジ・サンバ・サウージ」というサンバチームを立ち上げたメンバーで、現在もチームの責任者としてサンバにのめりこんでいる松下だけでした。久しぶりのバンド練習では、それぞれが、色々な社会経験や多様な音楽の影響を受け、音楽的にはずっと成長していました。ただし、楽器に関しては、松田、川上はたまにギターを弾く程度だったので、指が動くようになるのは大変でした。吉田はベースを弾きたくないと、急きょ松田の友人にベースをお願いすることとなりました。
バンド再デビューの曲目については、これから再挑戦を合言葉に、できるだけ昔のレパートリー以外の曲をやろうということでブランディワインブルース以外5曲(ブラフォー、キングストンのコピー曲ではありますが)を新たに選曲しました。(同期会での結果はそれなりにといったところでしたが、逆に楽しみながらもっと満足できる演奏がしたいという思いがみんなに芽生えたような気がします。)
とまあ、こんなわけでBBQは再スタートすることになったわけです。
BBQ今昔物語(その2)
記憶が定かではないのですが、1966年頃、当時高校2年で同級生だった松下、吉田、私がもう一人の同級生とマージャンをやりながらデュークエイセスのレコード「女ひとり」やブロードサイドフォーの「若者たち」などを聴いていて、『バンドやろうか』と始めたのが、結成のきっかけだったと思います。
その後、1人が抜け、隣のクラスの松田が加わり、今のBBQがスタートしました。
金沢高校には、1期先輩の小林さんたちのラブリーメンが既に活動しており、刺激を受けたのを覚えています。
その頃は音楽情報もあまりなく、ブラフォーやPPMの曲を中心に練習していましたが、レコードからコード、ギター奏法、ハモなどコピーするのが大変でした。
そのうち金沢文庫に住んでいる松田が『近所に三崎ともやすさんというギターのうまい人がいるから教えてもらいに行こう』と言い出し、みんなで自宅へ押し掛けました。
その当時、三崎さんは20代だったと思いますが、既にハマフォークを立ち上げており、私たちからみるとすごく大人に見えました。
ご自宅では気さくに接してくれ、そこで初めてスリーフィンガーを教えてもらいました。また、ライムライタースやウィーバーズ、チェットアトキンスなどその当時聴いたことも無かったバンドのレコードを聴かせてくれたのを覚えています。
当時の若者の音楽状況は、ビートルズが来日し、マイク真木の「バラが咲いた」やブロードサイドフォーの「若者たち」、森山良子の「今日の日はさようなら」、フォーククルセダーズの「戦争は知らない」、加山雄三の「君といつまでも」、荒木一郎「空に星があるように」など生ギターをメインにしたヒット曲が生まれ、東京では、フォークジャンボリーのはしりの「スチューデント フェスティバル」が、活躍し始めたころでした。(確か三崎さんはSFにも関わっていたと聞いています。)
山添さんお尋ねのバンド名BBQは、吉田と私で辞書を調べていて、なんとなく語呂がいいので、base born base blood Quartet「下品な4人組」という自虐的なバンド名にしました。バーベキューの略ではありません。
BBQ今昔物語(その3)
BBQ最初のステージは、1967年3月磯子区根岸の薬業会館でした。
たぶん三崎さんに勧められ、出演するためのオーディションを受けたような気がします。
初めてのステージは何を歌ったかよく覚えていないのですが、ブラフォーのボーリンググリーンではなかったかと思います。
まだ高校生でしたので、ハマフォークでの世代の違う人たちとの交流は、非常に新鮮でした。特に三崎さんやリバーティンの山添さんたち、尾山さん、久次米さん、瀬底さん、みなさん大人に見えました。
今でこそカラオケでマイクの使い方は練習できますが、何しろ初めてのライブということで、マイクで歌うのは初めてなので、非常に緊張していました。その時は、三崎さん宅での練習で、声が出ていないと近所の金沢乙鞆海岸に連れていかれ砂に穴を掘って大声を出す練習をしたのを思い出し、一所懸命に歌いました。
BBQは最初のうちこそ、ブラフォーの「ブランディワインブルース」や「シェナンドウ」などを歌っていたのですが、日本語の曲やプロテストソングを主にレパートリーとするようになります。
思いつくままにあげると「死んだ女の子」「いつかある日」「死んだ男の残したものは」「しゃれこうべと大砲」など暗く地味な歌を歌っていました。
バンドのみなさんは経験があると思うのですが、ブラフォー、キングストン、PPMなどのコピーを歌っているうちに日本語で気持ちを伝えたいと思うメンバーがいて、バンドの方向性を議論することがなかったですか?
音楽に対する方向性や60年代の時代状況が、私たちの中では、かなり大きな比重を占めるようになっていきました
BBQ今昔物語(その4)
前回、1967年3月薬業会館がBBQのデビューと書いたのですが、その前に紅葉坂にあった婦人会館(暗くて小さなホール)で、重いウッドベースを交代で持ちながら急な紅葉坂を登り、ハマフォークジュニアコンサートに出演したのを思い出しました。
いわゆるセミレギュラーのバンドが集まってコンサートをしたような?
その他バンドで「土居まさるのフォークジャンボリー?」というラジオ番組に出演したり、大妻女子大の大学祭に出演したりもしました。
ところで、高校2年から高校3年の12月まで、大学受験準備まっただ中にフォークバンドをやっていたというのは、いま考えてみても呑気な仲間でした。
練習場所はそれぞれの自宅を転々としていました(親にはそんなことをやってないで勉強しろといわれながら)。
そんな活動をしながらも、メンバー3人は何とか大学に現役で合格、1人は美術大学受験に失敗、浪人生活へと入りました。
時代は、ベトナム戦争が泥沼化し、反戦平和運動・大学紛争の真最中、巷では高石友也の「受験生ブルース」や岡林信康の「山谷ブルース」が流れ、既成概念の打破や大学ロックアウトが頻発していました。
そんな時代状況の中で、バンドメンバーの1人は大学に籠り、連絡がとれなくなり、自然とバンド活動ができなくなりました。
最終的に4人で話し合った結果、当分BBQはバンド活動を休止しようということになり、私と吉田はそのままハマフォークにスタッフとして残ることになり、他の2人は別の目標へと歩んでいきました。
BBQ今昔物語(その5)
2008年11月の金沢高校16期同期会での演奏がきっかけとなって、バンド再結成へと進み始めた私たちは、2009年1月4日に逗子文化プラザのさざなみホールで「還暦コンサート」を開催しました。 当日は家族、友人、知人(MGの村松、斎藤参加ありがとう)など100人ほどが集まってくれ、いよいよバンド活動への情熱が高まりました。
合意事項は、昔の曲でも、できるだけ今までやっていなかった曲をやり(残念ながら昔のレパートリーは諳んじていますが、新しい曲は楽譜を見ないとなかなか歌えません。)、常に前向きに楽しみながら演奏しようというものでした。もうひとつは、ライブ活動を積極的に行うということでした。
ちょっと整理してみたのですが、ずいぶんライブ活動やっていました。
《おまけ》 |
BBQ今昔物語(その6)
11月6日から2泊3日で京都へ行ってきました。紅葉はもう少し先でしたが、さすがに観光時期のため大勢の人で溢れていました。
人ごみをかき分けながら哲学の道を歩いていて、ふと「四つ葉のクローバー」のメンバーで1970年の大阪万博に大阪府枚方市の川嶋の実家に泊まり、万博見学のついでに、京都のこのあたりの屋外でバンド練習したことを思い出しました。
今昔物語(その4)でBBQが活動を停止して、私と吉田がハマフォークに残った話をしましたが、ソロで活動していた望月正臣、スタッフの川嶋成太郎となぜかバンドを組むことになり、「四つ葉のクローバー」としてバンドがスタートしたのでした。
当時のフォークソングはサイモンとガーファンクル「明日に架ける橋」、赤い鳥の「武田の子守唄」、ジローズの「戦争を知らない子供たち」などが流行っていました。
フォークバンドの流れもアメリカンフォークから脱皮してオリジナルソングへと方向性が変わっていく時期でした。私たちもその流れの中で「すてきな夢」というオリジナルのラブソングを唄っていたのを思い出します。望月の艶のある声で、かなりファンができました。東京12チャンネルのオーディションでは、まだデビューしたての「かぐや姫」と争いましたが、残念ながら敗れたのを覚えています。
この頃からハマフォークの一員としてポスターづくりなどハマフォークの運営にも携わるようになりました。また、バンドやスタッフとの交流も生まれ、山添さん、尾山さん、久次米さん、小林さん、飛山さん、「ミークピューパス(KAZURA、MEGURA、アマちゃん、くま、可愛かったね!)」や女子商業の「グリーンフィールズ」、「フォークストリングス」、「ル・シャン・パラデュール」、「リーズ」、スタッフの宮崎君、高橋君、今の会長の稲見君、村上君、教育会館の三好夫妻、その他多くの皆さんとのバンド活動、ハマフォーク合宿、コンサートの企画運営を通じての交流が、今もハマフォークに関われているベースにあると思っています。
その後、四つ葉のクローバーのメンバーもそれぞれ就職し、仕事の関係から解散を余儀なくされることとなります。
さて、40年ぶりに再結成したBBQは最初にお話ししたとおり、常に楽しみながら、新しい曲に挑戦していく気持ちを大切にライブ活動に励んでいきたいと思います。もちろんハマフォークジャンボリーの活動にはできる限り参加させてもらいたいと思っています。私たちの状況はめぐまれていますが、やはりそれなりに考え方や方向性での相違はあります。しかし、40年の月日がメンバーそれぞれの寛容を育んだように思います。
これからも元気にバンド活動にまい進していきます。
みなさん暖かく応援してください!