しま物語 by murakami
―「しま物語」執筆に向けて ―
……村松さんがこの世からいなくなり、もう一年半以上もたちます。
約40年前、ぼくは「しま」というバンドで村松トシオさんと一緒に数年間を過ごしました。
2011年3月7日、突然、村松さんがいなくなり、もう「しま」を続けてゆくことは不可能となりました。
……今では、2010年1月15日の関内ファーラウトでのコンサート出演のために、数十年ぶりにしまを再結成させ、そのための練習で何度も村松さん斉藤さんと3人で「もっけんスタジオ」に通ったこと。そこで、3人でギターを弾いたこと。ハーモニーをつけたこと。みんなでわいわい話をしたこと。そして、カズにも会えたこと。
それらすべてが、ぼくにとって村松さんからの「思い出の置き土産」のように感じられます。
関内ファーラウトを開催するまでのぼくは、もう二度と「しま」でステージにたつことはないと思っていました。
……なのに、ファーラウト開催の数カ月前のある日。
突然、村松さんがぼくの勤めている会社にひとりでやってきました。
そうして、ひと言「村上、しま、やるぞ!」と言いました。
それは断言でした。
その時の村松さんの顔をぼくは生涯忘れないだろうと思います。
何かを決心した顔でした。
村松さんが言ったのはたったそれだけです。「村上、しま、やるぞ!」と。
ぼくは村松さんの気迫に押され、「はい。わかりました」とだけ伝えました。
そうして「しま」は復活し2010年1月15日関内ファーラウトでのコンサートに出演しました。元町ボナンザでのハマジャン同窓会以来、24年ぶりの「しま」でした。
2010年12月には「第55回ハマフォークコンサート開催」。
そこでも「しま」は演奏しました。
だけれども残念ながらその数カ月後、2011年3月7日に村松さんは亡くなりました。
村松さんは「第55回ハマフォークコンサート」で大活躍でした。
バンドでは「MG4」と「しま」。
ハマフォークシンガーズをとりまとめ、ラブリーメンを手伝い、コンサートに出ずっぱり状態でした。
そうして、この掲示板では「MG4物語」をアップさせました。
何だかあとから考えると、まるですべてを予感でもしていたのではないかと思えるほどです。
ぼくは村松さんに笑いながら「村上、おまえよぉ」って呼ばれるのが大好きでした!
ぼくは村松さんの奏でるギターの音色が大好きでした!「天才だ」って、いっつも思っていました。
ぼくは村松さんの声に、ハーモニーをつけるのが大好きでした!
「しま」というバンドを一緒にできたこと、ぼくの宝です。
……「MG4」は「MG4」の4人がつくったバンドです。
村松さんは金高で軽音楽部に入り、そこでたくさんの素晴らしい先輩方と出会い、ハマジャンからも刺激をうけ「MG4」はどんどん大きくなっていきました。
ハマジャンで出会った山ジイにはバンジョーの奏法を伝授してもらい、トビヤマさんにはギター奏法を教えてもらいました。東京のバンド「フロッキーズ」には、たくさんの影響を受けました。
そうしたことが村松さんの音楽テクニックを作りました。
そして……村松さんはそれまでのことをベースにして、自分のオリジナルの世界「しま」をつくりました。
「しま」は、村松さんがつくったバンドなのです。
ぼくが「しま物語」を書かせていただこうかなとずっと考えていましたが、おこがましいかなとも思っていました。
でもやっぱり、書かせていたたくことに決めました。
「MG4物語」で村松さんは自分のことを「私」と表現しています。
私はしま物語での自分を「ぼく」と言ってしまいます。
村上成人の「ぼくのしま物語」です。
これからしばらく「しま物語」におつきあいいただければうれしいです。
①「しま物語」~序章
平成23年3月7日 村松トシオ、享年59歳。
突然の訃報でした。
3月9日と10日に「お別れの会」を上永谷京急メモリアルホールで執り行いました。
みんなで手作りの「音楽葬」でした。
ハマジャンと共に生き、音楽を一生愛し、生涯でいくつかのバンドを組み、そうして突然この世を去った村松さんのために多くの人がお別れの会に集まりました。
10代だった若者が、40代50代60代になり、みんな息子や娘、いや孫がいる方もいます、そうした年齢になっていました。
何十年かぶりの再会は悲しい理由での再会でしたが、そんなことでもなければ一生会えなかったかもしれません。
みんな村松さんの訃報を聞いて驚き、悲しみ、そうして万難を排して集まったのです。
村松さんの人柄でしょう。
「お別れの会」の通夜では、村松さんの組んだバンドの曲が流れ、ひとりひとりが村松さんに語りかけ、白いカーネーションを一輪ずつ供えてゆきました。
みんなにカーネーションを渡す役目は、かずらさんとめぐらさんでした。おふたりが心をこめて、皆に一輪一輪の花を手渡し、皆は村松さんに最後の言葉を伝えました。
村松さんの息子さんたちや、二人のお兄さんやお兄さんの奥さんやそのお子さんたちも参列してくださいました。
柩のなかの村松さんは白い花にかこまれ、きれいな顔をしていました。
でも、かすかに口の端を曲げ、自分の突然の死を認めないというような無念さもぼくには感じられました。
「まさか自分が死んでしまうはずがない」そう思っていたのではないでしょうか。
柩のまわりはハマジャンでの合宿やコンサートでの写真が飾られ、かたわらには愛用のギターが置かれました。
まさに音楽葬です。
村松さんはいつだって恰好よかった!
葬儀では……村松さんが「MG4」でお得意だった楽曲「This little light」をみんなで大合唱し、村松さんをおくりました。
あれから早1年半以上がたちました。
ぼくにとっての青春は「ハマジャン」で、それは当時、何よりも大切な存在でした!(大袈裟かもしれませんが、家族より彼女より学校よりずっとずっと大事な存在でした)
そうして「しま」も同様の存在でした。
村松さん……今頃、向こうの世界でギター片手に新曲でも作っているのではないですか?
いつかぼくが村松さんのそばに行ったら、是非ともハーモニーをつけたいと思っています。
そうして、また一緒に唄をうたいたいです。
②第1章「しま、誕生」 そのⅠ
昭和47年春、ぼくは大学1年生になっていました。
当時、ぼくの心を占めていたのは「ハマジャン」です。
明けても暮れても、ハマフォーク一色の日々でした。
そうして、その頃には何となく村松さんと一緒にバンドをやろうという事になっていました。
村松さんは当時「今に誰かが」「伝書鳩」「真実の街」「町のおもちゃ屋さん」などいくつかのオリジナル曲を作詞作曲したばかりでした。
「伝書鳩」が、初期の「しま」の代表作です。
「澄みきった青い 青い空へ 一羽の白い 白いハトが
翼を広げて 風に舞いながら 飛んでゆく
好きだとひと言 書いた 手紙を足につけて
鳩よ あなたのところまで わたしの気持ちを伝えておくれ……」
村松さんに「オリジナル曲をつくったんだよなぁ」と言われ、ぼくは「今に誰かが」を聴かせてもらいました。
村松さんのソロの曲で、不思議な歌詞とやたらとハッキリしたギターの音色のとてもいい曲でした。
ぼくは感動し「いいよ。すごくいい! ほんと凄いよ! ほかにはないの?」と言いました。
村松さんが「聴きたい?」と尋ねるので「聴きたい!」と答えました。
聴かせてくれた曲は「伝書鳩」でした。
「伝書鳩」はその時点でまだ未完成でしたが、スリーフィンガーの綺麗なメロディでした。
青空を白い鳩が飛んでいるイメージが浮かびあがり、思わず一緒にうたい、自然とハモリました。
村松さんが「お前、なかなかいいじゃん!」と誉めてくれました。
その時が「しま」とはまだ呼べない「しま」が誕生した瞬間だったんだと思います。
村松さんはぼくより二歳年上で、お兄さんというより、憧れの存在だった人がいつの間にかぼくと親しくしてくれていたという感じでした。
なんといっても「MG4」はその頃のハマジャンのスーパースター・バンドです。
川上さんの恰好いいギターの弾き方、イイバチさんの渋い声とウッドベース、斉藤さんの垢ぬけた存在感、そうして村松さんのギターテクニックなどが相容れ、MG4のつくりだす世界「コキリコ」「牛追いの唄」「ヨルダン河」「女ひとり」などに、皆が魅了されっぱなしでした。
そんな村松さんとオリジナルばかりを演奏するバンドを組む!
ぼくにとっては夢のような、そして、とても光栄なことでした。
でも思い返すと、ぼくはただ村松さんと一緒にハモっていたかっただけなのかもしれません。
村松さんとバンドを組むということは、村松さんとただ一緒に歌をうたっていたいという思いが高じた結果のような気がします。
大学1年の春頃には、ぼくは毎日のように村松さんの家を訪れていました。
当時のぼくは髪が肩まであり、自分で作った継ぎはぎのジーパンを履き、底の厚いサボの靴なんかをよく履いていました。当時の多くの若者が皆そのような格好をしていた時代です。
ぼくは、上大岡から横浜市営バスに乗り、「芹が谷山谷」で下車。
そこからまたトコトコと15分ほど歩くと村松さんの家でした。
丘の上の二階建ての一軒家です。
大学に顔を出してから帰りがけに村松さん宅に寄る、ということもありましたが、とにかくぼくが村松さんの家に行くのは当時、日課のようになっていました。
村松さんのお母さんはおおらかで優しい方で、ぼくをいつでも歓迎してくれました。
ぼく専用の茶碗や箸、歯ブラシも村松家にはありました。
40年も前の話です。その頃には携帯電話など当然なく、ぼくは村松さんと何日の何時に行くという約束をしたことはいっさいなく、家に行って村松さんがいなければ村松さんのお母さんかお兄さんと話をしているという感じです。
村松さんが大学から帰ってきて「おう、お前。いたか」と言い、ふたりでなんとなくギターを弾いたり、村松さんの歌声にあわせて、ぼくが適当にハーモニーをつけたり、また村松さんの当時趣味だったカメラ撮影の現像を一緒に手伝ったり、テレビを観たりして、はっと気がつくと終バスは出てしまっていて……。村松さんが「村上、泊まっていきゃあ、いいだろう」と言われ、ついその気になり、泊まり、翌朝、朝食をご馳走になり、そのまま、また村松さんと1日ギターを弾いたりしていました。よく歌っていたのは「五つの赤い風船」「吉田拓郎」「中川イサト」「六文銭」などです。
……そんな風にして日々が過ぎていきました。
大学で唯一できた友達は、ナカノだけです。
ナカノをハマジャンに誘い、ナカノは稲見さんたちと「茶飲み友達」をやり、ナカノとも大学で会うよりハマジャンで会う方が圧倒的に多くなりました。
昭和47年、世間では、沖縄返還、連合赤軍の浅間山荘事件で騒がしかったり、川端康成が逗子のマンションでガス自殺を図ったりした頃です。また、当時の田中角栄通産相が「日本列島改造論」を発表したりしていました。
当時の若者の心をとらえていたのは「格好のいい自家用車を持ちたい」ということで、ニッサンのCM「ケンとメリー」の歌がテレビからよく流れており、スカイラインが若者の心をつかんでいました。
吉田拓郎の「旅の宿」「結婚しようよ」や、青い三角定規の「太陽がくれた季節」がヒットチャート入りし、テレビドラマでは「太陽にほえろ」や「木枯らし紋次郎」が流行り、みんなが紋次郎のセリフを真似て「あっしには関係のないことでございます」なんて言いあっていました。
ただ、ぼくの頭の中は、いつだってハマジャンのことで占められていました。
今考えると、まるで大学4年間の日々はハマフォークの先輩方の意思を継ぎ「ハマジャン」をやるために、ぼくに用意された時間のように思えます。
懐かしい日々です。
当時、上大岡から村松さんの家に向かう自分の姿が目に浮かびます。
晴れていても雲っていても雨でも雪でも台風でも、そんなことはまったく関係ありません。
ただ村松さんの家に行って、そこに村松さんがいなければ帰ってくるまで待ち、帰ってきたら、村松さんがギターを弾き、唄い、ぼくがハーモニーをつけた日々。
村松さんの「おお、お前。いたのか」という顔、忘れることはできません。
③第1章「しま、誕生」そのⅡ
その頃……、昭和47年頃にぼくはギターを購入しました。
高校3年の時に有明のハーバーなどでアルバイトをして必死でお金をためたのです。
そうして、村松さんと御茶ノ水の「カワセ」に行き、5万円の「ジャンボ」を購入しました。
当時のぼくにとって5万円は高価です。
村松さんがガラスのショーケースや展示されているギターのなかから何本かを取り出し、試し弾きをし、少し考えてから「これがいいかな」とボクに一本のギターをさし出してくれました。
ギターは美しい木で出来ており、弦をさわると深い音がしました。
ギターはピカピカと輝いていて、ぼくはそのギターを買いました。
以降、暇さえあればギターを磨いていました。
大切で、大切で……仕方がありませんでした。
磨けば磨くほど自分も上達するような気がしていたのかもしれません。
ぼくは左利きです。
食べるのも書くのも左です。
でも、ひとつだけ右のものがあります。
それが「ギター」です。
よくみんなに「どうしてギターだけが右なの?」と尋ねられました。
答えは簡単です。「ぼくのギターの先生が右だったから」です。
村松さんにギターを教えてもらいましたが、思うようにぼくは上手くなりませんでした。
ギターのセンスはあんまり備わっていなかったようす。
もっぱらギターも唄も「気合い」でやっていたようなもんです。
逸話があります。
当時、何かがあってたぶん2、3日村松さんの家に行けなかったんでしょう。
村松さんのお母さんが村松さんに「今頃、村上くんは何をしているのかしらねぇ」と訊いたそうです。
村松さんは「あいつは今頃、家でギターでも磨いているよ」と言ったそうです。
村松さんのお母さんが教えてくれたことです。
たぶん、ほんとうにその会話の頃には、ぼくは家で一生懸命にギターを磨いていたことと思います。
いつだって丁寧にギターを取り出しては眺めピカピカなのを確認し、さらに磨いては眺め、弾いては磨き、そんな日々を繰り返していました。
ある時、村松さんから「会わせたいヤツがいるんだ。大学の友達なんだけど、『しま』に入ってもらおうかって思っているんだ。そいつPPMとか好きなんだよ」と言われました。
それが、斉藤タカシさんでした。
斉藤さんに最初に会ったのは掃部山公園です。
掃部山公園は桜木町の紅葉坂・教育会館の近くにあります。(教育会館はハマジャンの歴史でも約六割以上のコンサートをやっているハマジャンの皆にとってお馴染の会場です)
紅葉坂の頂上の左側に教育会館があり、右側には神奈川県立青少年センターと県立音楽堂があり、その裏に掃部山公園があります。
公園の一番高いところにある広場には、井伊直弼の銅像が海に向かって立っています。
桜の名所で知られており、この公園ではたびたびハマジャンのシングアウトの練習も行いました。
銅像の裏で、ぼくたちは待ち合わせをしました。
ぼくが待っていると、村松さんと一緒に斉藤さんがやってきました。
「しま」の練習ということだったので、ぼくと村松さんはギターを持っていました。
「斉藤です」と、斉藤さんがぼくに言いました。
すぐに村松さんが「サイトウ、やるぞ」と言い、村松さんと斉藤さんがふたりで「今に誰かが」を唄いはじめました。
なんと斉藤さんはその時ぼくのパートを歌っていました。
すでに村松さんと練習していたようです。
斉藤さんは、声はかすれているのにやたら高い声で、ギターはまだ少ししか弾けませんでした。
ぼくのパートは斉藤さんが歌うらしいので、ぼくは村松さんに「ぼくはどこを歌えばいいんですか?」と訊くと村松さんは「好きなようにやっていいよ。おまえはいくらだってハーモニーつけられるでしょ」と言われ、ぼくは必死に独自のハーモニーを作りました。
斉藤さんは六本木に住んでいて、ジーンズとサングラスが良く似合っていて「東京の人」っていう感じがしました。
斉藤さんは当時、謎のアルバイトをしており、どこにいてもアルバイトの出勤時間になるとすぐにバイトに飛んで行ってしまうという「最優先はバイト!」の人でした。
でもしだいに……ギターの上達とともにお茶の水「カワセ楽器」の方と友達同然のお付き合いとなってゆき、斉藤さんがカワセに行けば必ず何かおまけが付くという感じになり「しま」だけじゃなく他のバンド分のガット購入も引き受けるようになり何となくハマジャンの「ガット購入責任者」となって活躍し、そのうち「しま」のなかで一番いいギターを購入、斉藤さんがカワセ楽器に行くたびに斉藤さんのギターはグレードアップしてギターの糸巻きが金色になっていたりして……、それと同時に斉藤さんもしだいに最優先順位が「しま」になり、いつの間にか「東京人」から「ハマジャン人」になっていきました。
そうして、「しま」は3人になりました。
練習は駒沢公園、村松さんの家、ぼくの家などでけっこうやりました。
そうして、昭和47年7月16日勤労会館でのジュニアコンサートに出演したのです。
楽曲は「伝書鳩」「真実の街」「町のおもちゃ屋さん」。
そのジュニアコンサートで、ソロシンガーの弾き語りでデビューしていたハヤカワ和良くん(カズ)が、斉藤さんが「しま」に加入してしばらくしてから、エレキベースでしまに参加しました。
カズはぼくより3歳年下で、まだバリバリの高校一年生でした。
カズはファッション雑誌に載ってもおかしくないくらいのいわゆる今で言う「イケメン」で、カズのしま参加で、しまの女性ファンは急増したと思われます。
またカズの加入で、しまの練習場所も確保。
カズの家は広く、カズの部屋はちょっとした離れのようになっていて「しま」の練習に最適でした。
これで「しま」が出来あがりました。
村松トシオ……リードギター。
斉藤タカシ……ギター。
ハヤカワ和良……、エレキベース。
村上成人、ギター……の4人です。ギターの3人が並んで立ち、ちょっと離れた後ろにカズがエレキベースを持って立つ、という「しま」独特のスタイルが完成しました。
斉藤さんの渋い独特の歌声とカズのセンスのいいエレキベースが入り、しまは格段に音楽の幅も広がり、また4人になったしまの醸し出す雰囲気は2人の時に比べ格段にアップしました。
それが、昭和47年秋のことでした。
しま物語番外編
『ハマジャン徒然』 その①「ハマジャンの初詣」
昭和45年12月31日、ぼくが高校2年の時、ハマジャンの「初詣」に初めて参加しました。
鎌倉の裏駅に、たしか夜10時30分集合でした。
そこに集まっていたのはハマフォークのコンサートのステージに立っている人たちでした。
驚いたのは、男性の先輩数名が和服姿だったことです。和装の彼らはハマジャンの幹部でした。(今思うとおそらく山ジイ配下の方々だったのではないかと……)
みなさん和服姿が板に付き、とてもカッコよかったです!
40年も前のことです。当時、初詣の際に男性が和服姿だなんて「なんて粋!」だったことでしょう。
これってハマジャンの伝統だったんでしょうか?
裏駅で和服姿の先輩たちは腕を組んだり、タバコを吸ったりしながら、これからまだ集まってくるだろう人たちを待っていましたが、ぼくはその立ち姿に見入ってしまいました。
女性の先輩方も美しかったです。着物姿の方もそうじゃない方もみなさんあでやかで華があり、近寄りがたいオーラを放っていました。
当時の初詣は、若者にとって「一大イベント」で今よりもはるかに人出が多く、大晦日、夜11時を過ぎると鎌倉周辺は人であふれ、どこもかしこもまるで渋谷駅前のスクランブル交差点のような状態でした。
どの店にも煌々と明かりがともり、飲食店の前には長い行列ができています。
年に一回の「初詣」という祭りは「除夜の鐘」と「初日の出」を目がけて、勢いを増してゆきました。
高校2年生だったぼくには、ハマジャンの先輩方はどなたも「あこがれの存在」で、こうした場所に自分が参加できることが誇らしかったものです。
翌年もその翌年も「ハマジャンの初詣」に行きましたが、ぼくの記憶では、昭和47年で和服姿の男性はいなくなりました。
和服姿の最後の年に和装だったのは、たしか……川上(兄)、深草さん、イイバチさん、MGの斉藤さんだったかと思います。(間違えていたらスミマセン)
……村松さんはいつも自分の格好には無頓着で、和服とはほど遠い「いつもとおんなじ格好」でした。
イイバチさんはカッコイイ和服姿でぼくのことを「なり坊~なり坊」と呼んでくれていました。
今、思い返すと、先日この掲示板に「木枯らし……」で登場された「四つクロ」の川嶋さんも、初詣の時には和服姿だったのではないでしょうか?
「ハマジャンの初詣」では、鎌倉中をいろんな方たちと話したりはぐれたりしながら、鶴岡八幡宮に参拝します。
人波で埋まっている小町通りや若宮大路、段葛を少しずつ進み、やっと境内に近づきました。
一番混んでいる時間帯だったので、境内付近になると警備のために警察が張ったロープで順番を仕切られてしまいます。警官が拡声器で「はい、次。前へ」なんていう指示の声のたびごとにわずかずつ前にゆき、やっと舞殿を通過し、大石段をのぼり、本宮に到達しました。
真冬の深夜、風は凍え、大石段の横にはすっかり葉を落としてしまった大銀杏がそれでも堂々とそこにそびえています。
ぼくは厚着をしています。毛布のようなオーバーコートを着込み、毛糸のマフラーで首をぐるぐる巻きにしていました。
気温がどんどん下がってゆくなか、ぼくはハマジャンのそんな集まりの中にいられることがうれしくてしかたなかったです。
参拝が終わると「ハマジャンの初詣」に参加したメンバーは、自然といくつかのグループになり、「由比ガ浜で初日の出を見に行く組」と「喫茶店で朝までずっと過ごす組」「流れ解散する組」などに分かれました。
毎年25~30名くらいが参加する、楽しみな行事のひとつでした。
……ぼくがハマジャンから遠ざかったのは昭和53年ですが、以降も「ハマジャンの初詣」は続いていたのでしょうか?
最近では、ぼくは家で「テレビの中の除夜の鐘」をきいています。
そうして、昔、大晦日から元旦にかけて、ハマジャンのみんなで「寒い、寒い」と言いながら鎌倉中を歩きまわり、明け方近く「初日の出」を拝むために八幡様から由比ガ浜へと続く道を歩いたことをなつかしく思い出したりします。
「スマホもケータイ」も「デジカメ」も「ヒートテックの下着」も「かるくてあったかい羽毛コート」も、まったくなかった時代の記憶です。
平成22年に強風で倒壊してしまった鎌倉を象徴しているかのような大銀杏は、ぼくの頭のなかでは、今でも大きく枝を伸ばし、すくっと鶴岡八幡宮の真ん中に鎮座しています。
④第2章「しま、活躍す!」そのⅠ
昭和47年、カズが加入する直前の秋のことです。
当時、関内・本町4丁目に「ナショナル・ショールーム」という場所があり、そこの2階が小さなスタジオというかちょっとしたコンサート会場のようになっていました。
そこでコンテストがあり、しまも参加しました。
楽曲は「伝書鳩」。
実はこの頃にはオリジナル曲はまだ数曲しかありませんでした。
「今に誰かが」「伝書鳩」「真実(まこと)の街」「町のおもちゃ屋さん」「さくら貝」「もしかしたらあれは」。
当時のしまでのメインとなる曲は「伝書鳩」と「真実の街」でした。
「伝書鳩」の高速アルペジオはなかなかむずかしいものがありましたが、ぼくはそのやさしい曲調とハーモニーが大好きでした。
「真実の街」は斉藤さんの声と曲が融合し、ひとつの不思議な世界をつくっていたと思います。
「このまま この街のどこかで ひとりで生きてゆこうか
それとも 誰も知らない街へ ふたりで旅に出ようか……」
歌詞のとおり、本当にどこか知らない街を男がひとり、寂しげに歩いているうしろ姿が浮かんできます。
斉藤さんの歌声の力だと思います。
「町のおもちゃ屋さん」は、ぼくがソロ部分を担当しました。
「誰でも一度は 足をとめるさ
いろんなおもちゃのある店の前
ガラスをとおして なかをのぞくと すずしい顔して わたしをにらんだ
かわいいおもちゃの兵隊さんが 足をそろえて歩いているよ……」
聴いてくれる人が楽しくなるようにうたいました。「今に誰かが」「伝書鳩」「真実の街」の4曲ともに、村松さんの作詞作曲です。
「さくら貝」は村松さんのかろやかな声が魅力的です。
「さくら貝をいちまい ひろってきました
潮鳴りをあなたにも きかせてあげたくて
透かしてみると 海がみえる そうつぶやいた あなたの
あなたの瞳に わたしは愛をみつけました」
「さくら貝」と「もしかしたらあれは」作詞は太田ミサコ、作曲が村松トシオでした。
「ナショナル・ショールーム」でのコンテストでは、「しま」はなんと優勝しました。
思いがけないことで、うれしかったです。
その時のゲストは「南こうせつ」。彼が「優勝は『しま』のみなさんです!」と発表しました。ゲストタイムには南こうせつが「新曲をうたいます」と言い「おもかげ色の空」を歌いました。「神田川」が大ヒットするちょうど1年前の出来事です。
ナショナル・ショールームは、立ち見も入れて7、80人も入ればいっぱいになってしまうような天井の低いスタジオのような場所でしたが、そこではよくフォークイベントが行われていました。
当時は、フォークソング全盛期です。「五つの赤い風船」は解散したけれど、まだまだ次から次へと新鋭たちが登場していました。「吉田拓郎」「井上陽水」「泉谷しげる」「南こうせつとかぐや姫」「アリス」などそうそうたるメンバーが活躍し、巷ではよく彼らの曲が流れていました。
当時はまだCDなどというすぐれ物はまだこの世に誕生しておらず、町には大小さまざまのレコード店がたくさんありました。ぼくたちはそこでレコードを買い、針で傷つけないようにLP盤やEP盤レコードを大切に聴いたものです。万が一誤って傷つけてしまうと雑音が入ったり音がとんでしまい、とても残念な思いがしました。
ちなみに関内の「ナショナル・ショールーム」。なつかしい場所です。
伊勢佐木町の「ハマ楽器」と、今はもうなくなってしまいましたが「ナショナル・ショールーム」には皆でよく通いました。
4人になった「しま」は、昇り調子だったと思います。
昭和48年4月にはNHKのテレビ番組『ステージ101』に出演。「伝書鳩」を演奏。
後に「木綿のハンカチーフ」を歌った太田裕美がスクールメイツで出演していました。セットの隅でアイスクリームを食べているのを見つけ、ぼくは彼女にひと口アイスクリームをもらいました。
NHK横浜のFMラジオには何度か出演しました。
アナウンサーだった「フランケン磯浦」。教育テレビ3チャンネで「町から村から」という番組を担当していたアナウンサーで、彼に「しま」が気に入られたのです。
NHKのFM横浜ラジオには「フランケン磯浦」の番組があり、そこで村松さんとぼくとでひとつのコーナーを任され、ふたりでDJまがいのことをしました。そこに寄せられた視聴者からの詩に即興でメロディをつけたり、そこで唄ったり……なんていうことも2、3か月ばかりしていました。
収録の際にはハマジャンのみんなが来てくれました。
当時、NHK・FM横浜は県庁通りにありました。白いコンクリート造りの建物でした。階段をあがってゆくと収録のブースがあり、そのなかでフランケン磯浦と向かい合いマイクにむかってしゃべるのです。
村松さんもぼくも即興での歌作りは得意でした。
あっという間に曲を仕上げ、村松さんがギターを弾き、ふたりでハモリながらマイクに向かってうたいました。
そんな時よく村松さんはギターをかかえ、唄をうたい始める時、片方の頬だけを少しだけあげ、かすかにニヤッとしてから「村上、いくぞ」とぼくに小さく声をかけます。
何かをはじめる前の気合いの入った、そしてどこかやさしさを含んだ声でした。
ぼくは、いつだってそんな瞬間が好きでした。
⑤第2章「しま、活躍す!」そのⅡ
「しま」は、ヤマハ主催の「ポピュラー・ソング・コンテスト」いわゆる「ポップコン」の関東甲信越大会の予選にも推薦があり出場しました。
東京・銀座8丁目にあるヤマハのビルのなかにあるコンサート会場に行きました。3~400人くらいは入る会場でしたが、客席には審査員と各バンドの関係者しかいない様子で、会場は一割程度しか埋まっていませんでした。その時、何組くらいのバンドがエントリーされていたのかは覚えていません。
推薦を受けた経緯は忘れてしまいましたが、曲は指定されていて「真実の街」(もしくは「伝書鳩」だったかもしれません)と「もしかしたらあれは」でした。
「もしかしたらあれは 夢だったのかもしれません
夏のある日 わたしの前を 白い風が通り過ぎていったというのは
そして そのなかに 青い影をみたというのは……」
「もしかしたらあれは」は曲調を少し工夫しようということになり、他のコンテストの賞品でいただいたオートハープを斉藤さんが奏でました。
「鏡世界」というバンドも一緒に出演していたのを覚えています。
結局、予選を通過したのか、そのあと東京の科学技術館ホールでヤマハ「マンスリー・コンサート」に出た覚えがあります。
ただし予選では審査員のアドバイスというものが細かくありました。
それには「しま」皆で難色を示し拒否し、「『しま』は、自分たちのスタイルでいこう!」と決めコンサートに出演しました。
楽屋と言う場所に初めて入りました。大部屋でしたけど、隣の個人の小部屋には「フォーリーブス様」とあり、ぼくは北公次さんにサインをいただきました。
結局「しま」は、そこで落選しました。もしかしたら、これを通過していれば「ポップコン」の本選にいけたのかもしれません……。
どのバンドもそうですが、いくつもの「もしかしたら」が積みかさなり、バンドの行方が決定されていったのでしょう。
大学の学園祭にもいくつか出演しました。
「白百合女子大学」の文化祭の時、司会は山本コータローでした。大学の講堂は、女性で満員でした!
その真逆が「明治大学」です。「茶飲み友達」のカナイさんの紹介だったんですが、地下の暗い場所でマイク一本で歌ったのを覚えています……。
「しま」にとって一番大きな賞は、昭和49年11月に開催された「相鉄ジョイナス ニューフォーク コンペティション」での第2位です。
これも経緯は定かではありませんが、たしか推薦で出場しました。曲は「伝書鳩」。
ゲストは新人バンドで「宇崎竜童とダウンタウン・ブキブキバンド」で「スモーキング・ブギ」を全員が白いつなぎを着て歌っていました。
優勝は「山崎ハコ」。彼女はこの賞を獲得し、プロデビューを果たしました。
「キャンティワイン」も入賞しています。
いまでもこの時のトロフィーは家に飾ってあります。
ハマジャンのみんなは、いつだって応援してくれていました。
「ナショナル・ショールーム」でも……。
NHKのテレビ番組『ステージ101』でも……。
NHK・FM横浜ラジオでも……。
「相鉄ジョイナス ニューフォーク コンペティション」でも……、いつだって「しま」のまわりにはたくさんの仲間がいてくれて、どこでもとても心強い思いでした。
「青春」には仲間が必要です。
誰だって、たったひとりで青春を過ごすことはまずありません。
同じ事で一緒に笑ったり悲しんだり頑張ったりする仲間がいてこその青春です。
ぼくの青春は「ハマジャン」であり、「しま」です。
ぼくがみんなと一緒に過ごした時間はかけがえのないものです。
コンサートが満員になったと言い手をとりあい喜んだ仲間がいた場所が青春です。
……ところで、ぼくにとっての自慢は、ハマジャンで美術を担当していたこともありハマジャンのマスコット人形の「バンジョーボーイ」をお手本なしに描けたことです。
当時、コンサートのポスターやパンフレットに載せるために「バンジョーボーイ」をどれくらい描いたかわからないほどです。
今でも「バンジョーボーイ」を見ると、胸がわくわくし、青春っていうぼくのアルバムのページがパラパラとめくられてゆきます。
掲示板のトップに登場している「バンジョーボーイ」。
ぼくの青春そのものなんです!
しま物語番外編
『ハマジャン徒然』 その②「ニュー小町でのミーティング」
「思い」は、場所に宿ります。
長いハマジャンの歴史のなかで、思いの深い場所はいくつもあります。
今日は、そんななかからひとつ。
「ニュー小町」の思い出です。
ハマフォークのミーティングは、いつから「ニュー小町」になったのでしょうか?
そして、誰がこの場所を決めたのでしょうか。ともかく、気がついた時にはミーティングは「ニュー小町」でおこなわれていました。
「ニュー小町」は、桜木町の駅から5分もかからない、野毛方面にありました。
40年前、桜木町は現在のような「おしゃれな街」ではなく、「みなとみらい」のかけらもありませんでした。「ランドマーク・タワー」も、帆船の形をした建物「インターコンチネンタル・ホテル」も、「大観覧車」も……なんにもありませんでした。
東横線の終点「桜木町駅」がまだ存在し、今こうして書いていてもすっかり様変わりしていることに驚かされます。
でも野毛方面は、昔とそんなに変わっていません。少しほっとします。昔の名残りがあるっていいです。
とにかく40年前は、桜木町の町全体が「野毛」の雰囲気でした。
当時、毎週水曜日には、ハマフォークのミーティングに参加するために桜木町駅で降り、野毛のごちゃごちゃした通りをゆきます。
野毛小路入口桜木町側から4本目の曲がり角に喫茶店「ニュー小町」がありました。
「ニュー小町」のご夫婦の顔もよく覚えています。だんなさんは黒いベストに蝶ネクタイをし、奥様(?)は割烹着の形に近い白い制服を着ていました。
店を入ると、一階の右側にケーキのショーウインドーケースと会計場所があり、その奥にボックスの席がいくつかありました。
左端には二階へと続く階段があり、そこをのぼった突き当たりに大きめの四角いテーブルがいくつか並べられ、そのまわりをロの字の形になるように黒い革張り風の椅子が並べられていました。20人くらいは座ることができました。そこがハマフォークのミーティング場所でした。
ミーティング開始は6時から。だいたい2時間程度でした。そこで「ハマジャンのコンサート」「合宿」「オーディション」などすべてのことが決まってゆきました。
そこでの思い出です。
昭和48~50年頃のことです。
「ニュー小町」に行き、席に着き、それぞれに註文をします。
その時です。キャンティワインのみっちゃんが、「私、レアチーズケーキとダージリン、お願いします」と註文しました。
それを聞いていて、ぼくは「えっ」と驚いてしまいました。まだチーズケーキが一般的ではなかった頃です。
「チーズでケーキなの?!」何とも不思議な思いでした。
ぼくはその時、初めてチーズがケーキになっていることを知ったのです。
「み、みっちゃん……レアーチーズケーキ、って?」とぼくが聞くと、当然のことのようにみっちゃんは「うん。ホントはね、わたし、ベークドの方が好きなんだけどネ!」と笑みを浮かべて答えました。
『おお、なんてお洒落な人!!』って、思いました。
当時、ぼくは「ショートケーキ」と「チョコレートケーキ」以外には、お洒落なケーキの名前は「モンブラン」くらいしか知りませんでした。
……毎週水曜日に「ニュー小町」に行き、みんなの顔を見て、みんなでハマジャンのこれからのことを話していた日々。なつかしいです。
その後自然にミーティングもなくなり、それから5~6年後、ひょんな事で前を通ったので「ニュー小町」に寄りました。
相変わらずショーウィンドーにはチーズケーキがありました。
年をかさねたニュー小町のご主人と奥様がぼくを見て、懐かしそうに、「ハマフォークの皆様はお元気ですか?」と尋ねられました。
2人の顔を見、そうした声を掛けられた瞬間、胸にくるものがありました。
どっと涙が湧きだし、前が見えなくなりました。
……しばらくして、「ニュー小町」の角は知らない店になっていました。
ぼくは「場所には、思いが宿る!」と思っています。
たとえば、たくさんコンサートを開催した「教育会館」……。
紅葉坂の「婦人会館」……。
毎週水曜日にミーティングを開催した野毛の喫茶店「ニュー小町」……。
「ニュー小町」の建物はなくなってしまいましたが、でも、野毛の路地のその周辺には「ハマジャン」みんなの当時の思いが宿っている気がします。
だって何年もの間、そこで「ハマジャン」の将来をみんなで真剣に語り合い、討論し、みんなで「ハマジャン」をつくりあげるために必死に話し合っていたわけですから……。
今では、ほとんど通過するだけになってしまった桜木町。
今度は、桜木町で降り、野毛あたりをぶらぶらと歩きながら、もう一度「ニュー小町」を探してみようかな、なんて思っています。
⑥第3章 「しま」のアルバム そのⅠ
①「しま」名前の由来
昭和51年9月4日に「ラブリーメン」「ラブ・クッカーズ」と「しま」の3バンドでコンサートを開催しました。
その時のコンサートのプログラムに「しま」の名前の由来が書いてありました。
『広い海にポッカリと浮かぶ“しま”小さいけれど海に流されることもなく、しっかりと根をおろし微動たりともしない緑の島、そんなところから名付けたバンド名である』と。
実際のところは、村松さんと斉藤さんと3人で練習をしはじめた頃に、当然ながら「バンドの名前はどうする?」ということになり、3人で桜木町のゴールデンセンター地下の喫茶店「エアポート」で考えました。
何気なく喫茶店の壁を見ると、そこには、エアポートというくらいなので壁一面に空港の写真が貼られていました。そこには飛行機と突き抜けるような青い空、海と白い砂浜、そして、ヤシの木のある島がありました。
それを見ながら3人で何とはなしに「『しま』って、いいんじゃない?」っていうことになったのです。
大した意味もなく決めたバンド名でしたが、とても気に入っています。
②コンサートの思い出「ギター、ピカピカ」
ぼくが当時ギターをピカピカに磨いてばかりいた話は先日ここで書きましたが、ハマフォーク・コンサート「しま」の舞台で、村松さんがメンバー紹介の時にその話をしています。
村松さんは笑いながら、「村上くんは、暇さえあれば、ギターを磨いてばっかりいるんですよ」と、言いました。
スポットライトがぼくを照らしました。
ぼくは抱えていたギターをそのスポットライトにあて、客席に向かってギターを動かしました。
光は反射しながら、真っ暗だった客席をキラキラと波のように移動してゆきました。
まるで客席が海になり、ぼくのギターが灯台になったかのようでした
少し風の強い夜の海に波がたったようで、とてもきれいでした。
実際にはぼくと村松さんは真横に並んでいたので、顔は見えなかったはずなんですが、ぼくはその時の村松さんの表情を思い出すことができるのです。
……時折、深夜にギターを取り出して弦を取り替え、音叉でチューニングをし、ポロンポロンと音を出したりします。
ギターを取り出す時と仕舞う時は、今でも必ず磨きます。
やわらかい布で、丁寧に丁寧に……。
そんな時、村松さんのコンサートでの話を思い出します。
「村上くんは、暇さえあれば、ギターばっかり磨いているんですよ」と。
見たはずもない村松さんの表情が、いつでもまざまざとぼくの脳裏によみがえります。
③コンサートの思い出「花いちりん、ユウコちゃん」
斉藤さんは「キャンティワイン」のアイコ(ぼくはアイコとは同じ歳。同級生のような感じです)と結婚し、ユウコちゃんが産まれました。
ユウコちゃんが産まれた時、ぼくは六角橋の産院にもかけつけました。(カズキが産まれた時にもかけつけました!)
ハマフォーク・コンサート「しま」のステージでは、ユウコちゃんがまだヨチヨチ歩きの頃から、ユウコちゃんが客席からステージ上のパパの斉藤さんに花をいちりん手渡していました。
これはもう「しま」のステージでは恒例でした。
……幼い女の子が客席からステージにゆっくりと近づいてゆきます。
スポットライトが客席を歩いている彼女を照らします。
ユウコちゃんは大事に花を持ち、ゆっくりとステージに歩み寄ります。
そこですでに拍手が起きます。
舞台にいる斉藤さんがステージの際までゆき、かかんで娘のユウコちゃんから花を受け取ります。
拍手は大きくなり、舞台も客席もひとつになります。
そうして、次の曲にうつっていきますが、会場は、さわやかな一陣の風が吹き抜けていったあとのような爽快さに包まれています。
この「ユウコちゃんのパパへの花の贈り物」は、「しま」のラストコンサートまで続いたと思います。
四十年近く前のことです。
ユウコちゃんも歳をかさね、ユウコちゃんにも子供がうまれ、その子供ももうずいぶんと大きくなっているはずです。
……いまでも「しま」のステージを思い浮かべると、ヨチヨチ歩きで必死にいちりんの花をかかえ、客席からひたすらステージに一歩一歩近づいてゆくユウコちゃんの姿があります。
その記憶は、ぼくには「しま」の思い出のなかでも、何か途方もない贈り物のように感じられます。
第3章 「しま」のアルバム そのⅡ
④「しま」の練習風景
しまの練習は、ハマジャンの次回のコンサートに合わせて開催していたという感じです。
「次のコンサート、どんな曲やる?」という相談からはじまり、みんなが意見を出し合い、村松さんが主導権をとり、なんとなく決まってゆきました。
曲目はどんどんと増えてゆきました。
4人になってからの練習は、もっぱらハヤカワ邸のカズの部屋です。
ハマフォーク・コンサート「しま」のステージで村松さんが話しています。『京浜急行の横浜方面からだと弘明寺駅から上大岡の間。弘明寺駅を出てトンネルを越えてすぐ右手、線路沿いの2階屋で窓に赤いペンキでピースマークが描いてあります。そこがベースのハヤカワ和良君のお宅で「しま」の練習場所なんです』と。
ナント、ぼくはまだカズを知らない時に通学電車で、そのピースマークをよく見ていました。
京浜急行に乗って何となく外を眺めている時、その「ピースマーク」がなぜか記憶に残っていたんです。
カズと知り合い、カズの家に初めて行った時、けっこう驚いたものです。
電車の窓からよく見ていた「ピースマーク」がある窓の家の住人と何かしらの縁があったんだということに。
「しま」は練習の時からマイクスタンドを立てていつもと同じような立ち位置で歌っていました。
最初の頃には週一ぐらいの練習で、月一で新曲が出来ていて、村松さん作詞作曲はもちろん作詞は何人かの人が参加していました。
ぼくも作りました。
斉藤さんは長女のユウ子ちゃんが誕生した時、「風車」と言う曲を初めて作詞作曲しました。(とてもいい曲です)
『まわる まわる 風車……』
ぼくが最初に作った曲は「北風」です。
次が「夢」かな。「季節は外れて」はぼくが作詞をし、村松さんが曲をつけてくれました。
ぼくも斉藤さんも村松さんが作詞作曲しているのを間近かで見ていて、曲作りを覚えました。
思い浮かんだ歌詞をうたいながら、ギターで適当にメロディをつけてゆきました。
ぼくは「しま」の練習をするのが好きでした。
メロディがあり、ハーモニーをつけてゆく。
村松さんはぼくのつけるハーモニーに註文をつけたことは一度もありませんでした。
なので、ぼくはいつでも自由にのびのびとやらせてもらいました。
新しい曲ができるとわくわくします。
メロディを確認してからハーモニーをつけます。どういう感じでハモったらいいか考えながら唄うのは楽しいことでした。
そうして、カズのベースの音が入り、ぼくと斉藤さんでギターを弾き、村松さんがしびれるようなリードギターを入れてゆき、新曲は少しずつ完成してゆくのです
時々「偶然」と「必然」ということを考えます。
ぼくが電車の窓からピースマークのある窓の家を記憶にとどめていたのは、いまとなっては偶然とは思えません。
何かの意味があってぼくは村松さんと知り合い、斉藤さんと知り合い、カズと知り合い、そうして、4人で「しま」というバンドをつくることになっていた……それは、必然のように思えるのです。
今では、あの時間があったから、現在のぼくがあるようにも感じます。
そんなことを考えるようになったのも、村松さんがこの世を去ってからのことです。
ハマジャンで過ごした歳月と、十代終わりから二十代にかけての数年間「しま」というバンドで過ごした時間。
当時を思い出すと「シンクロ」という言葉がふさわしい気がします。
ひとつの音が他の音と共鳴するように、「ぼくの弦」と「村松さんの弦」と「斉藤さんの弦」と「カズの弦」が共鳴し、ひとつの音を創り出したのでしょう。
そうして、それは「偶然」ではなく「必然」だったのです。
……ところで、練習場所だったカズのピースマークの家、かなり前に建てかえられていて、今はもうありません。
第4章 ぼくの「しま」以前
ぼくがハマジャンに入るきっかけは「ラブリーメン」でした。
ご存知、小林先生と飛山さん、高木さんの3人のグループです。
確か1969年頃です。
まだ中学生でした。
姉に誘われて紅葉坂の教育会館で開催されたコンサートに行きました。
……幕が上がったコンサートは、それはそれは中学生の私には夢の世界でした。
ゲストは、プロのバンドでした。
でも、私の心に一番残ったのは「ラブリーメン」でした。
客席にいたぼくは、「公園のふたり」ではゲラゲラと笑い、「手紙」では泣きました。
「ラブリーメンて、なんてすごいバンドなんだろう!」と深く印象づけられました。
ぼくもあんな風にバンドをやってステージに立ちたいと、たぶん知らないうちに思いはじめていたのかもしれません。
翌年くらいにハマジャンにスタッフとして入りましたが、ステージで見ていたバンドの方々「四つクロ」「MG4」「みかん人形」は、みなさん雲の上の存在でした。
また当時は「バンド」と「スタッフ」と大きく役割分担がされていて、ぼくは「スタッフ」としてできる限りのことをしました。
当時ぼくは美術担当助手、大将は吉田さん「四つクロ」と深草さんと関内木村ビル地下で吊るし文字の制作をしました。ポスターの作成はなぜか刷り上がるまで(シルクスクリーン印刷)で部屋に入れてくれませんでした。
ぼくは刷り上がりのポスターを乾かす役目でした。
そのあと、印刷代が安いというだけで八王子の印刷屋まで何度も往復したりしました。
また、高校時代の同級生とバンドを組んでいました。
ぼくは中学校で体操部に入っていました。
進学した高校には体操部がなく、ぼくは顧問になってくれる先生とあともうひとりを誘い体操部を作りました。
そのもうひとりがのちの「gii(ギー)」の山口ミツオです。
ヤマグチの同じクラスに上野タカシと藤木タダユキがいました。
高校2年の時、4人で文化祭にバンドで出演しようということになり、夏頃から約ひと月ばかり練習をしました。
文化祭では、上野がウッドベース、山口がギター、藤木がバンジョーとギター、ぼくがキダーで「待ちぼうけ」と「マイハート」の2曲を歌いました。
すでにその時、ぼくと上野はハマジャンに入っていました。
文化祭が終わり4人でハマジャンの「バンド」を目指そうということになりました。
「ハマジャンのバンド」はぼくたちの憧れの的でした。
高校3年になる春には4人で自主合宿なんていうこともしました。
大きな楽器をかかえながら湯河原まで東海道線に乗って出かけたのです。
2泊3日でPPMやキングストン・トリオの曲をびっちりと練習しました。
その後、ハマジャンで、「バンドのオーデションを受けたい」というと、先輩たちが「じゃ、オーデションの前に聴いてあげよう」と言い、演奏を聴いてもらいました。
先輩たちの前でPPMの「イッツ・レイニング」など何曲かを披露しましたが、「バンドで合格はちょっと無理だろう」と言われてしまいました。
ちょうどその頃、高校3年生だったので大学受験が控えていました。
以降しばらくの間、山口、藤木、上野の3人はハマジャンに参加する機会が減ってゆきました。
ただ、まったく大学受験を優先させていなかったぼくは、その分どんどんハマジャンにのめりこんでゆきました。
のちに山口と上野は、「しま」のカズの姉「オネエ(カワサキ佳江)」と「gii」を組み、昭和49年9月21日、第27回コンサートで初ステージを踏みました。
ぼくは自分が作詞作曲した「さよならの言葉」という曲を「gii」に提供、第29回コンサートで「gii」が歌ってくれました。オネエの少しかすれたはかない高声が心に響き、今でも耳に残っています。
その後「gii」はボーカルの女性が交代し数年間活動を続けました。
ところで、もうひとりの人物についてです……。
彼の家は東海道五十三次、保土ヶ谷宿入り口にあります。
高校生の時、彼の家に遊びに行った時にびっくりしたことがあります。
夕食は「一人用のお膳」で出てくるんです。
そうです! 時代劇の「武士の食卓」に出てくる四角いやつです。
膳には「汁の物・うなぎ・ご飯」がのっていました。
二階の畳の部屋で御馳走になりました。
彼はヤマハのYFG150のフォークギターを上手に弾きました。
凄い奏法でした!
当時、流行っていた、ハシダノリヒコとクライマックスの「花嫁」の前奏を完全にコピーして聴かせてくれました。
すごく細身で、すごくカッコ良かったです。
……で、彼というのは現在「茶飲み友達」で活躍中のフジキ君のことです!
今から40年近くも前の……ぼくにとって、まだどこにも「しま」のかけらもなかった頃のお話ですが、もしかしたら山口、藤木、上野の4人で行った湯河原の合宿には、4人それぞれのバンドの未来へとつながってゆく何かが潜んでいたのかもしれません。
湯河原の春は透明な風が吹いていて、今ならそれは「未来への風」だったんだと思います。
あれから40年、湯河原には行っていません。
そのうち機会をつくって訪れたいと思っています。
季節は春がいいですね。
どこかに40年まえのぼくや山口や藤木や上野がひょっこり隠れていたりするかもしれませんから。
終章 そして……「しま」
コスチュームまでモ昭和51年9月4日には「ラブリーメン・しま・ラブクッカーズ」の3バンドでコンサートを開催しました。
誰からともなく案が出て、コンサートを企画しました。
自分たちの自己満足な部分は多々あったのですが、結局、ハマジャン全員が手を貸してくれました。
その時の「しま」は結成して5年もたっていることもあり、このコンサートは「しま」の熟成期のものだったような気がします。
プログラムにある曲名は……「伝書鳩 真実の街 町のおもちゃ屋さん 春 日記帳 雨に想う 北風 季節ははずれて 路面電車 風車 さくら貝 etc」となっています。
コンサート時の録音をモッケンが蘇らせてくれました。
今でも、眠る前によく聴いています。
「ぼくの宝物」のひとつです。
……ハマジャンには当時もたくさんバンドはいましたが、「同じ時代を歩いた」というバンドはそう多くはありません。
合宿や定期コンサートである時は仲間であり、ある時はライバルであったバンドについて少し触れさせていただきたいと思います。
★「Singing Bells」について……。
「Singing Bells」ハマジャン最年少でオーディションに合格したバンドなのではないでしょうか。
高校1年……いや、彼らは中学からいました!
「Singing Bells」は、もう「キングストン・トリオ」になってしまうのではないかと思うほどキングストンが大好なバンドでした。
途中「シメ(シマダくん)」が「コジマ君」にチェンジし、「キングストン・ファームズ」に名称も変更。さらにキングストンに近づきました。
驚くことに衣装はもとより、バンドの端に立つウッドベース奏者のコスチュームまでモッケンは真似ていました。
みなさんご存知「アジロ君」はじめとし「モッケン」「ハタケヤマ君」「シマダ君」そして「コジマ君」たちです。
★「キャンティーワイン」について……。
「ケイコさん」「みっちゃん」「あいこ」「ミヤタ」。そして「ヨウコ」。
このバンドにあこがれた女性は多いと思います。
今ではレディース・バンドは普通ですが、当時はなかなかめずらしく、しかもウッドベースを弾くなんてスゴク格好いいです。
「エルマタドール」のケイコさんのイントロ部分の弾き方は今でもぼくの目に焼きついています。
ハマジャン以外の催事やコンテストなども一緒のことが多く、キャンティーワインはしまにとって「戦友」のような存在でした。
「Singing Bells」は解散をすることなく「第57ハマフォークコンサート」にて昭和59年12月29日に「Singing Bells」結成10周年と改名コンサートをしました。
そうして形を変え、現在は「RSS」として活躍しています。
いつも思うのですが「継続は力なり」とは本当のことです。
アジロ君やモッケンには、ひたすら頭が下がるばかりです。スゴイです!
でも……残念ながら、「バンドは結成され、いつかは解散」という運命をかかえているものなのでしょうか。
キャンティーワイン「第35回ハマフォークコンサート」にて、昭和52年9月1日解散。
ラブクッカーズ「第37回ハマフォークコンサート」にて、昭和53年5月7日解散。
しま「第39回ハマフォークコンサート」にて、昭和53年12月24日解散。
たてつづけに、ハマジャンからバンドが去っていきました。
……青春というのは「自分の木」を探す季節なのかもしれません。
みんなが「ハマジャン」という豊かな土壌に恵まれた大きな広い土地で、スタッフとして、またいろいろなバンドとして活動しながら自分の木がどこにあるかを探していたのではないでしょうか?
そうして、いずれかの時点で自分の木をさぐりあて、そして、その木をずっと育てているのです。
ぼくが探しあてた木は「しま」という名前でした。
その木は、村松さんがこの世からいなくなった今も変わることなく、ぼくのからだのど真ん中でぼくを支えてくれています。
そうして、今晩、クリスマスの夜に……
「しま物語」を終えようと思います。
ハマジャンの多くの仲間、たくさんのバンド、数々のコンサート、300円のチケットを一枚一枚必死に売ったこと。県民ホールでの1500人収容のコンサートとライブレコード製作……思い起こせば限りなく思い出はよみがえりますが……、
最後は、「しまの全曲」を紹介して「ぼくのしま物語」を終えます。
これまで何度もめぐってきたクリスマスの夜。
これから何度もめぐってくるクリスマスの夜に……、
誰かの心の片隅に「ハマジャン」に「しま」というバンドがあったこと、覚えていていただけたら、それだけでうれしいです。
「しま」全曲名
今に誰かが 作詞・作曲 村松利雄
伝書鳩 作詞・作曲 村松利雄
真実の街 作詞・作曲 村松利雄
町のおもちゃ屋さん 作詞・作曲 村松利雄
路面電車 作詞・作曲 村松利雄
さくら貝 作詞・太田美佐子 作曲 村松利雄
もしかしたらあれは 作詞・太田美佐子 作曲 村松利雄
白い花のように 作詞・? 作曲 村松利雄
若かったね 作詞・作曲 村松利雄
日記帳 作詞・リョウチ三恵子 作曲 村松利雄
小さなワルツ 作詞・リョウチ三恵子 作曲 村松利雄
想い出のかたちをした雨 作詞・リョウチ三恵子 作曲 村松利雄
春 作詞・リョウチ三恵子 作曲 村松利雄
北風 作詞・作曲 村上成人
夢 作詞・作曲 村上成人
春になったら 作詞・作曲 村上成人
冬のコンサート 作詞・作曲 村上成人
気ままな土曜日 作詞・作曲 村上成人
季節は外れて 作詞・村上成人 作曲 村松利雄
すきま風 作詞・村松利雄 作曲 村松利雄
雨に想う 作詞・作曲 村松利雄
わたしの唄 作詞・作曲 村松利雄
風車 作詞・作曲 斉藤 隆
思い出にさよなら 作詞・作曲 村松利雄
あなたへ 作詞・作曲 村上成人
雪の日 作詞・作曲 村上成人
笑顔 ?
友よ 作詞・作曲 村松利雄
青春 作詞・作曲 村松利雄
ぼくの大切な妻へ 作詞・水谷あずさ 作曲 村松利雄