The Libertine Folk 4 今昔物語 by 山ジイ

 

★リバティーン今昔物語(1)★リバティーンってこんなバンドでした

先ず、リバティーンって、英語で書くと「Libertine」です。

意味は調べてもらえば分かるけど「放蕩者」「道楽者」「自由思想家」なんて意味があります。
何故このバンド名が付いたかというと、我々がHFJに参加したときにはバンド名がありませんでした。また、コンサートなどで人前で演奏するなんて考えても居なかったので全く考えていなかったというのが本当のところです。
しかし、ハマフォークのバンドとしてハマジャンのステージはもとより、東京にもゲストで出演するには、バンド名がないとプログラムにも紹介できないので、当時の会長の三崎氏が「リバティーン・カルテット」はどうか、ということになりました。
カルテットは人数が4名の時は良いけど、増えたり減ったりしたときに改名するのも大変だね。ということで、The Libertine Folk 4になりました。
実際に一時期メンバーが5名になり、Folk 5になったことがありました。

★バンド結成のきっかけ
最初は、私と幼馴染みの今井の二人で何となく始めたのがキッカケでした。
当時は私が専修大学で今井が法政大学の学生でした。私は、楽器が弾けなかったので、今井からギターを教わりました。二人で当時デビューしたてのブラフォーをコピーしたものです。
何故ブラフォーかというと、当時彼等の歌っていた曲は、本当にスリー・コードの簡単な曲ばかりでしたから。

2年生の夏休みに、今井と北海道旅行に行きました。札幌で今井の学友である名塩に会いました。彼の家は札幌なので、ケチケチ旅行の拠点にさせてもらった訳です。
北海道旅行中に名塩を仲間に引き入れました。新学期が始まってからは、暇を見ては3人でブラフォーの曲を練習したものです。
ある時、ギター3本では物足りないし、ブラフォーの曲にもバンジョーが何曲か挿入されているので、私が、バンジョーをやることを押し付けられました。
バイトでお金を貯めて、ピアレスのロングネックバンジョーを買いました。
簡単な1枚の説明書が付いているだけで、チューニングだけは何とかなりました。しかしながら、ロングネックの意味と、5弦の意味が分からず、取り敢えずバンジョー入れて練習に取っ掛かりました。しかしバンジョーが入ると、我々としては、これが最高にグーでした。
当然5弦は使いませんので緩めていました。今思えば、ブラフォーのバンジョーは4弦のテナーバンジョーだったんですね。リズムは、ポコ・ペコ・ポコ・ペコ見たいな単純なリズムです。
半年くらい3名で好き勝手に遊んでいたら、ラブリーメンの亡くなった高木茂夫の兄貴で私の学友である高木邦彦から弟がハマフォークのバンドやっているから参加してみてはどう?って誘われました。
そこで、急遽高木をベースマンとして加入してもらい、リバティーン4名の原型が出来上がりました。何故高木がベースかというと、弟がラブリーメンでベースやっているから何かと都合が良いという極めて単純な理由からです。
そして、バンドとしての形が整った時点で、ハマフォークのオーデションを受け、ハマジャンのバンドとしてのスタートを切りました。
そこで、バンド名が無いと何かと不都合なので、先程のリバティーンの名前がついたという訳です。

★初ステージ
当時のハマフォークは、まだ単独でハマフォークコンサートを開催するだけの力量もパワーもありませんでした。そこで、対外的な出張演奏が主体でした。
そんな訳で、リバティーンの最初のステージは、今でもありますが、新橋駅近くの「第一ホテル」のビアガーデンでした。
しかし、開始から暫くすると雨が降り出し、急遽会場を屋上から室内に移し、そのトップバッターが我々リバティーンでした。
もう、4人とも上がりまくり、緊張で身体がガチガチでした。曲は3曲程度だったと思います。今でも覚えてますが、最初の曲がブラフォーの「こげよマイケル」でした。今井の12弦がイントロなのですが、手が震えてしまい、ピックが弦に正確に当たらずに、ガチガチと音を出しているだけで曲がなかなか始まりません。私が、見かねて、今井に最初のジャン・ジャンだけで良いからと伝え、何とか演奏が始まりましたが、1本のスタンドマイクだけなので、本来は、マイクを4名が取り囲んで演奏すべきところを、横一列に並んでソロを取る奴も前に進まず、その場で顎と首を付き出して最後までやってしまいました。
おそらく、聴いていた人には全くマイクが音を拾って居なかったと思います。

★リバティーン今昔物語(2)★
今回は、何故突然キングストン・コピー・バンドに変更したのかを中心にお話しします。

私は、高校時代からBlue Grass Musicに興味があり、その中でもとりわけバンジョーに関心がありました。
勿論、弾ける訳はありませんが、とにかくその音色、リズム感そして個々のフレーズがとても好きでした。

大学に入って、Blue Grass同好会のようなクラブがあり、見学したことがありましたが、その神業とも思われるバンジョープレーに圧倒されたことだけはハッキリと覚えています。
俺にはとても無理だ。それが素直な感想でした。

しかし、今井とギター練習を重ね、名塩を引きこんでバンドの真似事のようなことを始めて、ハマフォークのバンドとして高木をベースに加えて本格的に活動を始めたことが自分の潜在意識に働きかけました。
たまたまバンジョーを担当していたことも大きく影響しました。

その頃は、そのバンジョーも、5弦の意味、スリーフィンガーピッキング奏法の基本は平凡パンチの付録から理解していました。
人差し指でメロディをとるインデックス・リード奏法でした。

少し脱線しますが、このインデックス・リード奏法は、「スタンレー・ブラザース」というブルーグラスバンドのバンジョー奏者であるラルフ・スタンレーの奏法です。
基本的に人差し指で2弦から4弦までをカバーする奏法です。

話を元に戻します。ブラフォーを始めた頃から、キングストンのことは知ってました。特に、ディブからジョンに変わった頃、ジョンの弾くバンジョーサウンドにBlue Grass banjoを感じさせられました。
いつか自分たちのバンドで、あんな風に演奏してみたい。それが夢でした。

ハマフォークのバンド、リバティーンとして活動し始めて約1年後位に、仲間にキングストンやらないか?って持ちかけました。
彼等は特に異論はありませんでしたが、一つだけ条件がありました。それは、以下のことを山ジイが担当するならばということでした。
①選曲
②コードを取る
③各パートを聞き取る
④前奏・間奏をコピーする
⑤バンジョーのことは全て山ジイに任せる
勿論、引き受けました。

それから、キングストンのLPレコードを日夜すり切れるほど聴いて、最初に5曲程を何とか完成させました。
確か、次の5曲だったと思います。しかし、曲目を自分でも驚くほどシッカリ覚えていたなァ。
1.This Little Light
2.Road To Freedom
3.So Hi
4.Oh Jo Hanna
5.Two Ten Six Eighteen
その頃、ハマフォークは約3ヶ月おき位にコンサートを開催していた筈です。
これを次回のコンサートまでに完成させようと、メンバー全員の特訓が始まりました。

この5曲を完成させて、初めて三崎氏に聴いてもらった時の彼のひっくり返るような驚きの顔を今でも覚えています。
ただでさえ、ギョロ目なのに、目が飛び出しそうでした。
『エ~ッ!リバティーン、ブラフォーからキングストンに180度方向転換じゃないですか!』見たいな事言われました。

何回目のハマフォーク・コンサートかは覚えていませんが、キングストン・コピー・バンドのリバティーンの誕生でした。
その時から、解散するまで、我々のステージでの最初の曲は、This Little Lightです

★リバティーン今昔物語(3) 様々なエピソード★
さて、今まで2回に渡って我々リバティーンの結成時とキングストン転向の話を中心に書かせてもらいました。
今回はその間に起きた色々な出来事や、当時の状況などを中心に書かせてもらいます。

1.曲のコピー方法
現在は、音楽もデジタル音源で、再生方法にも色々と便利な機能が付加されていて、我々もそれを当然のように受け入れ、使っています。
しかしながら、我々の時代には曲をコピーするときは、LPレコードを再生して聞き取りしました。
今のように、曲の一部を繰り返し再生するような機能はありません。レコード針を落としては上げ、見当を付けてまた少し戻したところから針を落として再生しました。
また、曲のKEYを変更することなくスピードだけをスローに落として再生するような便利な機能もありません。
当時は、SPレコードからLPレコードへの過渡期にあり、プレーヤーもその両方に対応できるような機器が販売されていました。

因みに、若い人にはSPだのLPだの意味がよくわからないかも知れません。
SPレコードは30センチ位のとても割れやすいレコード盤に片面5分程度の曲が1曲しか収録出来ないレコード盤です。
それに対して、LPレコードは、やはり30センチのレコード盤に片面30分程度の収録がされているレコード盤です。

私の自宅にあったプレーヤーはつまみが付いていて、LPレコードを約半分の速度に落として再生できるようになっていました。
当然、速度は半分になる分、音もこもって、低くなりました。でも、バンジョーのピッキングをコピーするには最高でした。
何度も低音の間延びしたようなバンジョーの音を聴いては、止め、自分のバンジョーで音を探り当て、また先に進むような作業の繰り返しです。
最後に、全部をつなげて自分で弾いた音と、レコードの正常な高さの音を聴き比べて完成です。
それでも当時の力量不足から(今でも変わらないけど)、完全コピーとは程遠いシロモノでしたけどね。

2.弦のクオリティ
現在ギターでもバンジョーでも弦は余程長期間手入れもせずに放置しておかない限りは錆びるなんてことはありませんね。
当時の弦は、それはそれは直ぐに錆びてしまいました。数日間で赤錆が浮いてきました。
1ヶ月近くなると、もう真っ赤です。使い物になりませんでした。
そこで、なるべく錆びないように食用油や、ミシンオイルを布にタップリと湿らせて弦を拭いてあげました。
それでも錆びてきます。次は、紙ヤスリでそっと錆取りをします。
今のように手頃な価格で購入できません。新品の弦を購入するのは貧乏学生にはそれなりの出費でした。
弦を蘇らせる方法として、熱湯で茹でる方法があると聞き、試してみましたが、私にはそれ程の効果は感じられませんでした。
結果的には弦交換は弦が切れるまで交換することはなく、したがって、切れた弦だけ交換するので、1台のギターやバンジョーで新旧の弦が混在するという、今思うととんでもないことを平気でやっていました。

ひどい時には、新品の弦でも少し錆びていたことがありました。また、ロングネック・バンジョー用の弦を購入したのに長さが足りないなんてこともありました。
だから、現在の弦のクオリティには感心します。

3.女子高生のアイドル???
横須賀の今井の家は三階建てで、その上に屋上があり、雨の日と、真冬の寒い季節以外は、いつも彼の家で合宿するときは、そこで練習をしていました。
今井の家の裏手の小高い山の頂上に今でもある筈ですが、「緑が丘女子高校」という学校がありました。
ある日いつもどおり練習していました。練習の休憩の合間に、私がフト顔を上げると、その女子高校のベランダに何とズラ~ッと女子高生が並んで手を振っているではありませんか。
他のメンバーに教えて上げて、その方向を指差すと、何と何と!両手を振って、キャー!という声まで聞こえるではありませんか。
もう、すっかりスター気取りで、手を振り返しました。
翌日も、その翌日も、段々女子高生の数が増えてきました。その内の何割くらいがハマフォーク・コンサートに来てくれたんでしょうか。もっと積極的に営業すれば良かったなァ…

★リバティーン今昔物語(4) 様々なエピソード・ズッコケ版★

カセットテープなんて便利なもの(少なくとも、カセットテープが誕生したときには驚きでした。)は当時は当然ありません。
テープとしては、オープンリールのテープレコーダーがありましたが、とても高価でした。また、テープをセットするのに色々なローラの間をくぐらせて大変でした。

チューニングは、今はデジタルのチューニングマシンがあるので便利ですね。我々が最初の頃に使用していたのは、ピッチパイプという一種の調子笛でした。
ギターのEADGBEを1弦から3弦までと4弦から6弦までを半分向かい合わせにしてある笛です。今あるのかな?
音叉は解散直前ころに使用し始めました。ハーモニックス・チューニングをマスターしたのもその頃です。
笛なので、段々使っている内に音が狂ってくることがありました。確か電話の時報のプッ・プッ・プッ・ピイ~ンのピイ~ンの音がAだった様に記憶しています。
笛の音が感覚的に狂ってきているな、と感じたときは、この時報を利用しました。

さて、今回は、ズッコケ・エピソードのお話です。

1.前下がりのロングネックバンジョーケース
最初に話ししたように、我々のバンジョーは、ピアレスのロングネックバンジョーでした。
当然、購入時にはケースも一緒に買いました。ところが、このケースに問題がありました。
ケースの取っ手の位置がネックの短いブルーグラスバンジョーと同じなのです。この位置だとバンジョーを入れて持ち運ぶときにどうなると思いますか。

ロングネックバンジョーはブルーグラスバンジョーよりもネックが3フレット長く作られています。だからロングネックって云うんですが(汗)
因みに、このバンジョーは、ピート・シーガというフォークシンガーがバンジョーで弾き語りするときに、Gより低いE~FのKEYでも演奏できるように作らせたバンジョーです。

話が脱線しましたが、ネックが長い分バンジョーの前の方が重くなりますよね。
実に、このケースにバンジョーを入れた状態は、ケースの前方が地面にくっつきそうになるほど下がってしまいます。
ギターと一緒に持つと、左右のケースが丁度×印状態になる訳です。とても格好が悪いです。それに前の方を少しでも上にあげようと取っ手に余計な力を入れるのでとても疲れました。
仕方なく、バンジョーのヘッド、太鼓の皮みたいなところですが、そこにかなり重い重りを入れて何とか水平位にバランスを保ちました。
しかし、重りなんかを入れたものだから、その重たいことったらありませんでした。移動した後は肩が抜けるほど痛くなりました。

これは、とっての位置がもう少し前に移動すればバランスが良くなるのでは、と思い、カバン屋に頼んで位置を付け替えてもらいました。
何と、抜群のバランスになるではないですか!バッチリとキングストンの「バック・イン・タウン」ジャケットの写真にあるジョンのバンジョーケースと同じ角度になった、などと自己満足の世界です。
取っ手を移動した後には英字の雑誌の切り抜きを貼って誤魔化しました。これが、また偶然にカッコよかったもんです。

2.ベンジョ・ドコ?事件
横須賀の今井の家の合宿が終わって、東京の名塩の所に移動する時でした。当時国鉄の横須賀駅で楽器を持って電車を待っていました。
そこえ、アメリカ人の水兵がやって来ました。
そして、私にこう質門しました。「ベンジョ・ドコ?」思わず聞き直しました。やはり彼は「ベンジョ・ドコ?」と聞きます。
その「ベンジョ」の発音が「バンジョ」としか聞こえませんでした。
私も、メンバーもしばし考え、きっと「バンジョーは何処製ですか?」と聞いているんだという結論に至りました。

そこで、私は、「This banjo made in Japan.」と彼に答えました。すると、相手は「NO! NO! ベンジョ・ドコ?」と同じように言います。
私はハタと気付きました。これは「便所、何処?」と聞いているのだと。
そこで、駅のトイレのほうを指さして「Over there,you see?」と言って上げたら、ニッコリと、しかもどこか安心したような顔で「サンキュー!」と言って駅のトイレの方へ急ぎ足で去って行きました。

彼が去った後で、変な日本語使うなよ!ってみんなで大笑いになりました。
今でもリバティーンの仲間が集まると、この話が出て酒が旨くなります(笑)

 

★リバティーン今昔物語(6)最終回★色々なエピソード

1.活動時期はいつ頃?
リバティーンの活動時期は、大学2年の時から卒業までで、1965年~1967年だと思います。

1966年に、あのビートルズが来日したとき、私の知り合いの女の子が、チケットが取れたから観に行かないかとの誘いがありました。
しかし、私は、キングストン・トリオには興味があっても、ビートルズには全く興味がありませんから、いとも簡単に断りました。
今思えば、歴史的なワン・シーンに立ち会えたんですね。勿体無いことをしました。

2.レパートリーは何曲位?
我々のレパートリーは常時演奏していたのは、解散時点で約15曲位だったと思います。
手がけた曲は20曲~25曲程度かと思います。
その中で、1曲だけ日本語の歌があります。それは、「こきりこ節」です。チョット意外でしょ?

何故この曲を取り入れたかということですが、ある日ラジオから偶然にこの曲が流れてきました。
演奏していたのは、MFQというバンドでした。このMFQは日本のバンドで、本家のMFQではありません。
後にプロに成り「バラが咲いた」のヒット曲で一躍スターになった、あのマイク真木が未だ無名だった頃にメンバーとして参加していました。
で、そのラジオから流れていた「こきりこ節」のメロディーを頭に叩き込み、歌詞を全員で書き留めて、ラジオの演奏が終わったら直ぐにコードを探り当てました。

歌詞の方は、もしかすると聞き間違いや、書き写し間違いがあると思いますが、リバティーン唯一の日本語の歌が完成しました。
イントロと間奏は、ラブリーメンのやっていた曲で、曲名を忘れましたが、似ている曲がありました。

一度、コンサートで私が間違えてイントロに入って、すぐに気付いたのですが、曲を中止するタイミングが取れなくて、2小節くらいやって、仕方なく途中でスミマセンしたことがありました。
リバティーンのメンバーも顔を見合わせて、唖然としていました。
後で、飛山や小林からビックリしましたよ。と言われ、大笑いになったことを覚えています。

3.解散公演
我々の解散は、教育会館ではなく、根岸の薬業会館という所で行ないました。1967年の春だったと思います。
村松君が高1のときにそのときのステージを見に来てくれたそうです。
クラムジーナッツ(当時全員がカリタス女学園の女子高生だったブラッキーのバンドです。)が我々のためにオリジナル曲を歌って送別してくれました。
いつも通り「This Little Light」のオープニングから始まり、最後の曲は「I Hope You Understand」でした。
途中に「花は何処に行った」も演奏しました。
この曲は当時、誰でもが知っている有名な曲です。敢えて、この曲を選曲したのには理由がありました。
当時のコーピー・バンドの傾向は、なるべく知られていない曲を演奏することが一種の流行りになっていました。
それは、誰も知らない曲を演奏することへの優越感、一方、万一失敗しても余り知られていないために失敗に気付かれないという利点もありました。

我々は、自分たちのバンドとしての最後のステージで、お客さんが全員口ずさむことが出来るこの曲を選曲することで一体感を持ちたかったからです。
勿論、皆さんご存知の曲ですから逆に難しいです。何度も、何度も、納得出来るまで練習を重ねて本番に臨みました。
ステージを見てくれた村松君がとても評価してくれていたことを後で知りました。

最後の曲が終わり、ステージからお客さんに今までのお礼の挨拶をして、約2年間のリバティーンのバンド活動は終了しました。

4.ハマフォークのシンボルマーク誕生秘話
ハマフォークのポスター、チケット、そして今掲示板や、HPにも登場しているハマフォークのシンボルである、バンジョー・ボーイはこのようにして誕生しました。
それは、リバティーンの歌詞を書いてある私のノートには、その片隅に色々なイラストがいたずら書きしてありました。
あのバンジョー・ボーイもその中のいたずら書きイラストの一つでした。

ある日、カブベアーズの尾山君が、このイラストをハマフォークのシンボルマークにしましょう、と半分冗談のように言いました。
しかし、その冗談が本物になり、ポスターにもチケットにも、遂にトレーナーや、夏用のTシャツにも印刷するようになりました。
復活ライブの時に、川嶋君が着て来たあのTシャツです。しかし、良く保存されていたなぁ

当時のバンドやスタッフは、そのトレーナを着られることをある種の誇りのように感じていました。
お客さんから、売って欲しいとの要望が余りにも多く、会員制にして入会をして頂くことを条件に原価で販売しました。
最盛期には相当数の会員が居たと思います。

5.解散後
解散後は、私だけがハマフォークに残り、グリーンフィールズにバンジョーとギターで参加したり、尾山君、久次米君、川嶋君たちと「トラジ」と云うバンドを結成したりしました。
また、伊勢佐木町のハマ楽器の2階でのオーディションにも参画しました。バンジョー講座を開催したこともありました。

伝統と伝説の真剣な?缶蹴りが始まった春のハマフォーク初めての合宿、マイクロバス2台での夏の塩原温泉の合宿などにも顧問という怪しげな?立場で参加しました。

今思い出すと、ついこの間のような気がします。我々の青春時代の貴重の想い出であり、宝でもあります。

長々とお付き合い頂きありがとうございました。以上でリバティーン今昔物語を終わらせていただきます。